心の悩みを聴くお救け場所
 天理教浦和分教会

おやさまのお諭し 私のひとり言集

神様の思い 私なりの気づき

親神様は、教祖(おやさま)を神の社と定め、そのお言葉にて色々な思いを私たちにお伝えくださいました。そこには、私たち人間の親としての思いが沢山込められています。
そのお言葉を、なるべく真っすぐに理解できればと思います。私なりに、一言ずつ簡単なことばで書き誌していきたいと思います。

神とは

古来より日本人は、自然界のありとあらゆるものに神が宿り、畏敬の念をもって信仰してきました。天空に浮かぶ月日や、威風堂々とそびえたつ山や、その中に高く真っすぐにそびえたつ杉の大木や、山道に立ちはだかる巨岩に、神が宿ると。滅多に現れない山の獣や海の主を、神の使いとして崇めました。静寂な山深い森の中にひとり入り込んだ時、底知れぬこころの解放感と温もり、そして恐れを感じます。
確かに、自然界のそこここには何か分からない神秘的なエネルギーを感じるときがある。

人間には見えない不思議な力。でも、しっかりと感じる力。
私がこの世に生まれてきた奇跡と、あらゆるものを与えられて生かされている奇跡。
何か不思議な力に守られていると感じる。だから、感謝し素直になろうと思う。
自然界の法則の必然性と、その世界に抱かれて生きていると云う喜び。


たんたんとなに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ
                              おふでさき 三号40

この世の始まり

想像もつかない広大な宇宙、遥か彼方で今まさに始まろうとしている星もあり、消えて無くなろうとしている星もあるという。
想像もつかない昔に、この星も誕生した。地は熱し、ガスが充満している泥海世界。
神は、地球を神秘に満ちた美しい星にしようと創造された。
大気を整え、大地と海を創られた。天と地の理想を創造し象られた。
太陽の温みと、水と、大気を創れば、自ずと生命は誕生すると考えられた。
しかし、生命が生まれ出したこの星を見渡しても、何とも混沌とした味気なさを感じられた。そこで共に楽しみを共有できる知恵ある生き物を創造された。それが私たち人間である。

この無限な宇宙の中のただ一つの星に、理想郷を創造された神。
天然自然の法則を定められ豊かな自然が循環し育まれる中に、私たち人間は生まれた。
この世この世界を始められた神の思惑を、しっかりと心に治めないといけない。

人間の役割は、与えていただいた知恵と言葉を使い、神と共に楽しめる世界を造り上げる事。
それができるようにと、沢山の人をこの世に送り出してくれた。
神を喜ばせようと、助け合う大きな輪が広がっていけば、必ず誰もが幸せだなと言える世界が出来上がる。

目指すは、世界一列 陽気ぐらし。


この世の地と天とをかたどりて 夫婦をこしらへきたるでな 
これはこの世のはじめだし         みかぐらうた

魂とは

私たちの体の中には魂があると言います。
人体学的には、魂と言う部位は出てきません。一体 魂とは何なのでしょうか。

私がこの時代に両親のもとに生まれ出て、今までに経験してきた全ての記憶を収め、これから歩むであろう道すがらが刻み込まれている記録の器。

今までに繰り返してきた 生と死とその間の歩み を刻み込んだ命の核芯。そして、これから未来永劫つながるであろう生命の核。

魂はエネルギーの塊、きれいな丸い器、他の何かのエネルギーとつながり情報交換をしあっている。
器の中に入る記録は、その人の心使いの通り。積もり積もれば中は濁る。

他の何かのエネルギーとは神か。すべて見抜き見通しとは、こう云う事なのだろうか。
ならば、できれば神を喜ばせたほうが好い。次に生まれ変わるときに、更に幸せになれるから。

人間は皆神の子 分霊、たすけられる徳を持って生まれてくる。あれたすけん、これたすけんとは言わん。どんな者でもみなたすける。                      おさしづ

このからだ

科学の進歩は目覚ましく、無限大な宇宙の謎解きや、自然界のミクロ世界の解明は進み、神が創りたもうたこの世が、少しずつ科学の力で見えてきてます。

生命の成り立ちも解き明かされつつあり、私たちのこの身体を構成している組織も単細胞まで分解し、それを構成する成分まで解明されつつある。医学術的に、クローン人間の是非も問われる段階まできている。

 

それでも、生命は未だ神秘の世界。ありとあらゆる命あるものは、科学の力では造り出せていない。植物の葉一枚、小さな虫の羽一枚、人間の身体の中を流れる血一滴、新陳代謝を繰り返す皮膚でさえ、未だ造ることはできない。

 

私のこの身体は、小宇宙その物 神秘の世界をまとっている。

考えてみれば、自分の身体の中の営みなんてあまり考えたこともない。食べたものは消化してくれて、寝ていても呼吸は続き、血は巡ってくれていることを。

 

親神様により母のお腹に宿し込まれ、貸し与えられたこの身体をまといこの世に生まれ出て、こころ次第に自由に使い、思い通りに暮らしている。

 

私だと言えるこの身体があることに感謝すべきである。これが無ければ、私は存在していないのだから。そして、健康で暮らさせている。何一つ足りないものはなく都合よく動き働いてくれる身体である。本当にありがたいことだと思う。

だから、親神様が喜ぶことに使わなければならないと思う。
それには、周りの人たちを楽しませる働きをさせていただこう。 

この身体は神様からの借物であることに、気づいている人がどれだけいるだろうか。皆に教えてやらなければと思う。

教祖は、「かしもの・かりものの理は、日々通らせていただく中に常に持たせていただかねばならんのやで」と教えてくださいました。

 

めへめへのみのうちよりのかりものを しらずにいてハなにもわからん

                             おふでさき三号137

にんけんハみなみな神のかしものや なんとをもふてつこているやら

                             おふでさき三号41

このよふは一れつハみな月日なり にんけんハみな月日かしもの

                             おふでさき六号120

このはなしにんけんなんとをもている 月日かしものみなわがこども

                             おふでさき十三号79

こころ

こころって、何なのだろうか。
こころを紐解くとき、学問的には心理学である。どうも物質的に存在するものではない。
私たちの身体に内在する 未知の力 であろう。木や花にもそれは内在しているのだろうか。
こころは、いつも脳や身体と交信しコミュニケーションしている。
全ての人間に備わる力である。

誰一人、同じではないことの証は、こころである。姿かたちでの判断ではあるが、過ごしてきた経緯、こころの使い方が容姿に表れる。それが今の私として見えている。
人のこころは覗き込めない。だから容姿、行動や言葉使いで読み取る。

こころは、本当に自由自在である。
やる気を起こせば誰にも負けない力が湧いてくる。
楽しいと感じれば、身体がふわふわ軽くなる。
空想の世界に入れば無限に広がる空間に行けるし、身体を切り離せば夢という非現実世界にも連れて行ってくれる。
空想や夢に描いたことを、実現する力を持っている。


親神様は、誰一人として同じにならないようにと、貸し与える身体にこころを足し加えて下さいました。私が私である所以である。これは喜んでいいと思う。

こころの使い方次第で、人を楽しませ幸せにできる。喜んだ顔を見ると、自分も楽しくなれる。どうせ生きていくなら皆 笑顔でいたい。

それ人間という身の内というは、神のかしもの・かりもの、心一つが我がの理
                           おかきさげ

をやこでもふうふのなかもきようたいも みなめへめへに心ちがうで
                           おふでさき五号8

人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も受け取る中に、自由自在という理を聞き分け。
                           おさしづ明治22・2・14

祈り、、、つとめ

神様の存在を信じ祈るのは、人間だけだろう。
世界の国々には必ず「神」という言葉がある。大昔からどこの人々も、神に祈りを捧げてきた。
その祈りは、今の泰平な世の状に感謝する祈りであったり、今起きている災禍を鎮める祈りであったり、集落、地域や国家単位の特別な儀式として執り行われてきた。
それは、歴史上知恵ある人間が成人する上で、非常に大切な事であった。人々が神という力の存在を信じ、崇拝し、民の心を一つにすることにより、安定を築いてこられた歴史である。

そして今 親神様は、最後(だめ)の教えを明かされた。人を救ける祈りをするようにと諭された。
己の心のほこりを払い無欲となり、無心に人の救かりを願う優しい心を使い、悩み苦しむ人に幸せになってもらいたいという心が、大切だと教えてくれました。
救ける心は次第に広がり、いずれはその輪は地域をつつみ、更に広がり、陽気ぐらしの世界となると教えてくれました。

教祖は、人を救ける祈りの作法を、「つとめ」として教えて下さいました。
誠真実の心を乗せて おつとめをすることが何より大事と仰いました。

誰でも、自分のまわりにいる人たちが笑顔でいると、思わず嬉しくなります。
これが幸せの始まりであることは間違いありません。


このつとめなんの事やとをもている よろづたすけのもよふばかりを
                          おふでさき二号9
このつとめなにの事やとをもている せかいをさめてたすけばかりを
                          おふでさき四号93
どのよふにむつかしくよふみへたとて よふきつとめてみなたすけるで
                          おふでさき十二号61

声は言葉

動物はコミュニケーションを取り合うとき、声を使う。
その能力でも夫婦となり家族ができコロニーとなり、種は繋がっている。彼らも素晴らしい能力を与えられている。

私たち人間はコミュニケーションを取り合うときに、言葉が使える。
心の声を言葉にして話ができる。おそらく動物たちよりもより細かに思いを伝えられているのだろう。私たちも素晴らしい知恵を与えられた。かしものの身体のお陰だ。

言葉は心の声という。その人の心そのものである。心地よく響く音もあり、いつまでもこころに不快に残る音にもなる。
心地よい言葉を貰った時、人はみな幸せな気分になる。自然とありがとうと言える。
言葉は優しく使うと、人のこころを救ける。
どうせ使うなら綺麗な声を発しようと思う。交わる人の喜びの肥やしとなるように。

親神様は「声は肥やで」「言葉は道の肥となる」と言われる。

水、、、うるおい

これほど大量の水の星が誕生できたのは奇跡であろう。

ガスが充満し、火が噴き出す泥海であった星。

マグマは徐々に治まり、ガスはうすれてきた世界に、私たちの古代祖先であろう微生物が撒かれた。彼らは、水とガスを永の年限を掛けて浄化してくれた。

 

海は生命の源となった。何億という種の宝庫である。

水無くして生命は生まれないし、成長しない。つまり生き物は存在しない。

ありとあらゆる生命の基幹成分は水からできているという事なのだろう。

人間も胎内に過ごす期間は、母より栄養たっぷりの水を貰いながら、まさに水中生物の姿で成長する。海に漂う遠い記憶がくり返されている。

 

水はしなやかで柔軟でありながら、物を浮かべ押し流す力を持つ。

存在を主張するでもなく、柔軟に形を変え、物の下に入り相手を常に見上げている。

天然自然の循環に従い、地中に入り身を清め、陽のぬくみを受け取り空に舞い上がり、地上の全てを洗い清め、ありとあらゆるものを潤し育て、そして、汚れを身にまとい土に帰っていく。

 

私も水の如く潤っているこころでいようと思う。

 

 

くにとこたちの命

人間身の内の 目うるおい、世界では水の守護の理   十全の守護

火、、、ぬくみ

陽が沈み闇の中、生命は休息の世界に入る。

すべての命の起源は水中に誕生した。僅かな光の中で生まれ出たのだろう。

気の遠くなるような時間のなか、温みのない環境でゆっくり成長し続けたのだろう。

そしていずれ地上に上がり、陽の光を浴びて生命は爆発した。

この地球は太陽を中心に成り立っている。天然自然の営みの根源である。

この地球は自らも熱を蓄えている。内在する熱は地をも動かし続ける。

ぬくみの恩恵の世界である。

 

朝 目覚め、晴れていると気持ちいい。

陽の光は、このからだを少しずつ呼び起こしてくれる。

エレルギーの源だと感じる。

 

生命は、陽の光を浴びて育つ。

人間は陽を受け取り、自らのぬくみを造り出している。

ぬくみは心を温めてくれる。温まった心は喜びを蓄える。

蓄えた喜びは、人に分けてあげたくなる。

 

火、ぬくみの力は、素晴らしいと思う。

 

 

をもたりの命

人間身の内のぬくみ、世界では火の守護の理    十全の守護

風、、、息吹き分け

陽のぬくみは、あらゆるものを暖めてくれる。

暖められた空気は、嬉しくなってきて動き出す。フワフワと登っていく。

水面をなめて輝かせ、田畑をわたり作物を育て、山を駆け上がり木々を揺らし、私たちの間を通りぬけて心地よさを与えてくれる。

風は万物に息を吹き入れてくれる。風が無ければ命は育たないだろう。

 

風も空気も見えないけれど、確かに与えられた大切なもの、神の息そのもの。

 

呼吸は命をつなぐ元なる活動。体内で燃やしてぬくみが生まれる。

息することがすなわち生である。無意識なる自在の働きに感謝する。

息吹き分けて言葉を使える。この知恵に感謝しかない。

 

今日も清々しい風が吹いている。ありがとうと感謝して歩こう。

 

 

かしこねの命

人間身の内の息吹き分け、世界では風の守護の理  十全の守護

災禍

東日本大震災から10年目という記事で報道されている節目の今、東北地方で大きな余震が発生した。専門家からは、ここ30年以内に南海トラフや首都直下型地震の発生確率のコメントが報じられている。自然の猛威は凄まじい。
新型コロナウイルス蔓延が収束の兆しもいまだ見えず、1年以上社会が混乱し続けている。全世界の死者は、第二次世界大戦の死者数を上回ったという事である。どちらも恐ろしい事である。
天災にしても人災だとしても、今の人間の知恵では、恐らくくい止めることはできないのだろう。

何故、人々が苦しむ災禍がくり返されるのだろうか。
その一つひとつに、どんな意味があるのだろうか。
地球規模の痛ましい災禍に、人間思案で答えは見出せない。それが結論かもしれない。

それなら、突き付けられた災禍を、どう受け止めるか。
尊い多くの命が失われる事に、どう向き合えばよいのか。
残された我々が、他人事で居てよいのか。そこを思案しなければならない。

人間は、その持てる英知を積み重ね文明を築いてきた。
文明は急速に発展し科学を生みだした。
科学は、天然資源を食い漁り、自然界にはなかったものを造り出した。
それは、空を、地を、海を、傷つけ続けている。

気づく時が来ているのだろう。
少しくらい不便でもいいではないか。
それより、自然が輝いていてくれた方が幸せだ。

人が生みだす限りない欲望はほこり。他者を思いやる澄みきりこころ。


欲に切りないこの泥う 心澄みきれ極楽や        みかぐらうた

時、、、未来

時が流れているというこの瞬間、何だか不思議。
宇宙は静の世界にみえる。それは何億年という単位の世界だから。
その中で、地球はもの凄く早く動いている。太陽軸で自ら回り、自然界の営みを生み出そうとしてくれている。昼と夜、天候の変化と自然界の循環。そこに時間が創り出されてくる。時空間の世界に私たちは生かされている。自転しながら回っているうちは、時間は戻らないし止まらない。

時の流れの中では、今この瞬間にさえ戻れないし、止められない。
一瞬を悔やんでも後の祭りだ。そのことを常に考えて時間を使っているだろうか。

私たちは、この瞬間をこころのままに生きている。
こころの使い方次第で、今この瞬間が嬉しい思い出になる。忘れられない嫌な記憶にもなる。
過去の人生は変えられない。今この瞬間からの人生は自慢できるものにして行ける。

時間も、神様からの大切な与えもの。こころ次第に大事に使わせていただこう。

天の理

自然界の営みの世界。すべてが繋がり合って動いている。

陽の光は、すべての物にぬくみを与え、水を舞い上げ地を潤し、風を吹かして、成長を促す。
陽は陰り、静寂をつくり活動を止め、休息を促し栄養を蓄え、更なる成長に備える。

水の星地球、広大な海と地中に内在する水と、空に浮かぶ水気、そしてすべての生命を形成する水、その水はいずれ母なる海に帰っていく。

大地では、豊かな森を育て木々草花が根を張り水と養分を受取り成長し、動物を守り育て、人は種を蒔き作物を育て命つなぐ。

気の遠くなるような時間を掛けて創造されたこの地球。
そこには偶然ではなし得ない壮大なる意思を持った力が存在する。
つまり、自然界のありとあらゆるものの繋がりと、時とともに流れる法則。

自然界の営みこそ天の理、理づめの世界こそ 神 である。


あたゑは天にある 理にあたえる        おさしづ明治32年8.22

いんねん、、、魂は生き通し

私の魂はどれだけの年限を見てきたのだろうか。
途方もない刻を渡り来たのだろう。

平穏に心満たされた日々はどのくらい占めているのだろう。
悲しさにさいなまれた思いをしたことの方が多いのだろうか。

愛し愛された人はどのくらい巡り会って来ただろう。
嫌われるような言葉を使ってしまった相手はどれほどいるのだろうか。
混沌とした時代の中で人を傷つけた事もあったのだろうか。

その永い永い記憶を私の魂は刻んでいる。決して消えることのない過去。
自身でありながら知り得ない記憶

今世で歩いてきた時間と今ここにある自分、前世までの善と罪 因縁の具現。
前世のあらゆる人と今も繋がり暮らしていると云ういんねんの世界。
人生は苦しいけれど、一緒にささやかに笑える日常があると言うことは幸せなのかも。

魂に刻まれたいんねんは消せないけれど、今から新しい種を蒔けば綺麗な花が咲き始めるはず。

いんねんと言うて分かるまい。皆これ世界は鏡、皆人間生まれ更わり、出更わりしても、心通り皆身に映してあるから、よく聞き分け。  おさしづ明治21.2.15

神様は、いんねんの者寄せて守護して下さるねで。  教祖伝逸話篇「心の合うた者」

こころのほこり

浮遊しているほこりは、あまりにも小さくて気がつかない。
吸い込んでも、目に入っても気がつかない。
風が吹けば、人が動けば、ほこりは舞い上がる。
恐らくほこりのない世界は存在しない。

ほこりはいつの間にか吸い込み、身に掛かり、回りに積もる。
そこでうがいをして、衣服を払い、部屋を掃除する。
綺麗になったと満足する。

人は自由気ままに行動する。その意思決定は自分自身。
心の使い方は、綺麗なときばかりではない。醜いときもある。
自分本位の考えは、時として人を傷つける。

こころに積んだほこりは、見る目を曇らせ視界を遮る。
やさしい気持ちが埋もれて出てこなくなる。
人を思いやる気持ちが出せなくなる。
自分が一番可愛くて、偉く思えてくる。

ほこりのない世界は存在しないかもしれないけれど、
積もらせたほこりは毎日掃除をしないと、
いつか大切なものが、霞んで何も見えなくなってしまう気がする。

八つのほこり
をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん

感謝、慎み、たすけあい

天然自然のこの世界で生かされている私たち人間は、その自然界の法則の中に生活しております。この世界のありとあらゆるものと共調し合い調和して成り立っております。その調和を乱す心の使い方、自分は正しいと思う癖性分が、少しずつ調和し合っている世界からズレてきますと、身上事情として現れてしまう事が起こります。人間誰でも犯してしまう心使いです。そこに気づくことが大事です。

生かされている喜びに「感謝し」、心の使い方を「反省し」、回りの人やものを「敬い扶ける」ことが一番大切だという教えの実践。

今自分に与えられている全てに「ありがとう」と言い、
いつも使ってしまう不足こころに「すみません」と謝り、
回りに与えられたすべての人とものと調和する「はい」と言う素直なこころ。

心の道

いんねんというは心の道、と言うたる。         おさしづ明治40.4.8

悪しきいんねん
病気になってしまったり、悩み事が絶えず身に降りかかってきたり、とても辛く苦しいことで、出来れば避けて通りたい。

この悩み事や病気になるという結果には、必ずそうなる元が自分の中にあったから。
花の種を蒔いて、夏の花園を楽しみに望んでも、手を掛け世話するという元を怠れば、楽しみにしていた花園にはならないように。
種を蒔いても、育てたとおりに成ってくる。
自然界の必然たる摂理であろう。理に逆らって花は咲かない。

負のスパイラルに陥らないためには、心の思考を変えるしかない。
心使いの癖性分は中々変えられないものだけれども、そこに気づくことが大事。
成ってきた結果を変えるには、元に気づくこと。
元に気づくと、元気に変わる。

心が澄みきると、すべての理が変わる。
理が変わるとは、これから成ってくる元が変わる、因縁が切り変わるということ。
元を変えれば、運命が変わる。


人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。
たった一つの心より、どんな理も日々出る。
どんな理も受け取る中に、自由自在という理を聞き分け。  おさしづ明治22年2.14

生、、、誕生

人間誕生の不思議。
私はどうしてこの世に生まれてきたのだろうか。
両親が私の誕生を強く望んだから。
それも間違ってはいないのだろう。
私自身が、この両親の元に生まれることを望んだから。
それは人間の領分で成せる技ではないのだろう。

親となる二人の出会いの偶然から、私の物語は動き出す。
私という種が蒔かれた奇跡の瞬間。
母胎は、私の成長に即して応じてくれる。まさに内なる小宇宙、深海の世界。
やがて産みの苦しみの後、この世に私が生まれ出る。

無から有へ動きだす命。
無限に広がる世界から,限り有る世界へ移っていく命ということ。
形が存在しない世界は広大な中にいたということなのか。
身体を頂くと時間の制限が発生するということ。

生とは命となる神秘の技。
設計図となる膨大な遺伝子を書き込まれながら、成長し続ける命の営み。
この世では男として生まれてきた。

両親に感謝、特に母には感謝。
そして、ないところから始まるこの技と営み、神の力に 唯々感謝。
貸しいただいたこの命と身体と時間、神が喜ぶ日々を過ごさねばと思う。

たいないゑやどしこむのも月日なり むまれだすのも月日せわどり                 おふでさき 六ー131

死、、、出直し

長い人生では、親しい人と悲しい永遠の別れがある。
私も、育て守ってくれた人たちと別れを経験してきた。

幼き頃、薄暗い奥座敷で、祖母は私の名を呼んでくれた。私は声が出なかった。
あんなに抱きしめてくれた祖母の手を握ってやることができなかった。
死がおし押せている空間は子供心には異界に感じた。

母との別れは覚悟の中、眠るように逝った。私の心は真っ白で何も見えなくなった。最後に母が抱きしめてくれていると感じた。
母の身体の温みに触れ、薄らいでゆく生と死の境界で手をつなぎ続けた。
温みこそ生であることが分かった。
人を愛し愛されて老いた人は、自分の死が間近であることが分かるようだ。

ときには幼くして、若くして、病に冒されて、事故で一瞬に向かえるその境界。
受け入れがたい死をむかえる時、人は何を思うのだろうか。
死という境界の向こうの世界は、人間の知見では分からない。
生の危うさ、死の儚さを悟るのは難しい。

人は誰でも必ず死ぬ。
人生の終焉という大切な時間を決めることは、自分では出来ない。
躍動し続けてくれた命の営みを徐々に止めていくその主、これもまた不思議な力。

お与えいただいた一生という時間はそれぞれ違う。
その時間を使い、どう生きるか、どうつなぎ続けるか。
神が授けてくれた時間であるから、役目があるはず。
善く頑張ったと、その時には魂を抱きかかえてもらいたい。

天然自然 すべてが繋がり流れゆくこの世界。
死はすべての終わりではない。
ないところから始まる命というが、元となる根本があってのこと。
元なる魂は生き通し。永遠の道。生まれ替わり出替わりの出直しの道。
死はけして哀れではない。次なる出直しの節である。

さあさあ人間というは一代と思うたら違う。生まれ更わり出更わりである。               おさしづ 明治39年3,28

一番見えないもの

人は目で見えるものを認識する。それは必然的なことである。
目に見えない物はどうしても忘れがちとなる。そして意識して考えることを怠ってしまう。

見えているようで見えない物、、、、 空気、水、太陽の光、宇宙
見えないけれど信じている物、、、、 神、精霊、魂、心

見えないけれど命にはとても大切なもの。
見えないけれど大いなる力、有限なる世界の秩序を創り育てる力。

なれど人が最も身近で見えない物・見づらい物、、、、それは自分とその心。

人は五感で認識できる物に、心を使って色々感じとり、判断する。
相対する人をあれこれ観察する。好きな人、合わない人、受け入れたり遠ざけたり。
見た印象や言葉から、他人の癖性分はよく見える。

だけど、自分の目で見えない自分のことは、なかなか見ようとしない。
人のことばかり観察している。

自分の身体はどれほど凄い物だと気がついている人が、どれだけいるだろうか。

祖父母を介護して思う、痩せ細った身体を起こすのは大変な事だ。
活躍した人の胴上げシーン、大勢の人がいないと舞い上げることは難しい。
それほど人を持ち上げるのは大変なこと。

でも、自分で立ち上がり飛び跳ね舞うことは難なくしている。歩いて移動することくらいなら誰でも一人で出来る。

そう考えた時、自分の身体って凄いことが出来るように造られているんだなと思う。
骨や筋肉や筋が、飛び上がれるよう走れるよう、しなやかな身体となっているのだと言うことが分かる。その自分の身体を見ることを何時もしていない。

ましてや自分の心を、しっかりと見つめ直す事をしていない。
その時々の事象に直感的に行動しているだけ。
自分の心の癖性分は全く見えていない。
人に言われると腹が立つ。それは、見えていないから。
自分自身は見えないのではなく、見ようとしないのかも知れない。

信仰とは、見えない神秘の力を信じること。
その始めの一歩は、自分では見れない自分自身を客観的に見ると言うこと。

神からお貸し頂いたこの身体、日々感謝して使わせて頂かないといけないと言うこと。


にんけんハ みなみな神のかしものや なんと をもふて つこているやら             おふでさき 三号41

二つ一つが 天の理

相反する二つのものが一つとなり、天然自然の調和がとれている。
天と地・・・温むものと潤うもの、そこに命が誕生する。
火と水・・・燃えさかるものと静めるもの、そこに命は育まれる。
大地と海・・不動のものと流動するもの、そこに命は成長する。
昼と夜・・・光と影、そこに活動と休息が営まれる。
男と女・・・強く逞しいものと優しく柔軟なもの、そこに喜びが満ちる。
この世界は、相反する働きが一つとなることで、命は生まれ育まれ成長し喜び合う
二つの調和が生み出す命の循環。

人の身体の中にも、二つ一つに働き成すもの、つまり目、耳、手、足。
片目を病んでも、指先を切っても、生活が不自由となる。
二つ一つで思いを成してくれる。理に適った一対。
なんともありがたい働きをしてくれている。

人は二人一つに夫婦となる。
夫婦共々働き家族を成し、子を産み育て送り出し、子孫を繋ぐ。
親神様がこの世この世界が味気ないと思われ、創造された理詰めの男女雛形。
これが種の起源であり、永遠の道。二つ一つの理が途絶えれば種は滅びる。

神は、人は一人では決して生きて行くことが出来ないように創られた。
それは互い助け合い支え合い陽気の輪が広がるように、元となる二人を造られることから始められた。命が生まれる単位は二つからとなる。

“二つ一つが 天の理” という教え。
この理詰めの世界、人間はその中で生かされている。
親となり背負う大きな責任、そこから始まる子供の未来。
二人が一つに成人せねばと、深く考えるべきである。

自然という中にいる

自然を大切にして付き合っていこう。
これほど豊かな自然という中に、私たち人間は生かされている。
自然から多くの恵みを受け取っている。
綺麗な空気や水。
食する物すべては自然が作り育てたもの。
すべての物を作り出す力がまさに自然という大きな力。

空や海、森と川と土を大切に使わせていただく。
人間はほんの少し手を出すだけ。それも大切なことであるが。
手を加える時は感謝して使わせていただく。
自然は人間の都合のいいように壊してはならない。

自然界は人間が創り出した物ではない。
それは創造主がいて、理想の世界を創り出してくれた思いがあるはず。

それを分からないで暮らしていては失礼である。
その思いを感謝して享受させて頂こう。

自然の中に、神がいる。


たんたんとなに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ
                   おふでさき 三号40

辛い中にこそ感謝、、、たんのう

人は病気になると、つい自身の事ばかり思い悩む。
なんで自分がこんな目にあわなければいけないのかと、人間思案に明け暮れる。

ほんの少し目線を変えてみる。
今は気が滅入ってしまう病気の中に身を置く状況だけど、
それ以前の長い間、健康な身体で過ごせていたこと、
元気でいられることを意識することなく過ごしていたことを。

生きてきた中で多くの人達と交わり支え合い、
その時々に自分の周りに寄り添って関わってきてくれた人たち。
引き続きずうっと関わり合う人たちがいて、
新たに知り合うであろう人たちの事に目を向けて思案してみたとき、

自然に感謝と期待と喜びが湧いてくる。


私たち人間は、この天然自然の法則の中に生かされている。
天の理によって生かされている。
その法則・理のありがたさを忘れて生活していると、調和の世界からズレを生じる。
リズムが狂い出すと、身体も狂い出す。
その事に気づいてほしいという、神様からのメッセージなのかもしれない。

長い人生の中、色々な事が起こってくる。
嫌な事悪い事ばかりを取り上げる癖性分をとりあえず忘れ、
感謝と喜び心で過ごしてみると、きっと善い事が待っている。


どのよふなさハりついてもあんぢなよ 月日の心ゑらいをもわく
おさしづ(十一号3)
どんなに難しい病と云へども案ずることはない、神の思惑は測り知れない処にある。

つながっている

命をつなぐ、
心をつなぐ、
人をつなぐ。

家族がつながる、
社会につながる、
自然につながる。

過去からつながってきた世界、
永遠とつながり続ける世界。

水を飲めば、からだに溶け込み、
焚き火に当たれば、温みが入り、
風を受ければ、肌が澄む。
これつながっていると言うこと。

森に入れば、気持ちが静まり、
小舟に乗れば、心が躍り、
街を歩けば、気が高まる。
これもつながっていると言うこと。

すべてのものが つながっている世界。

つながっているから見ることができる。
つながっているから会うことができる。
つながっているから行くことができる。

つながっているから、神は守ってくれている。


くにさづちの命 
人間身の内の女一の道具皮つなぎ、世界では万つなぎの守護の理

喜びこころ

人は様々な力を与えられた。
動物とは違った力を持たせていただいた。

動物は本能のみを使いこなす心。
人は自由自在に知恵を使える心。

みんなが使える 喜びこころ。
この心
人に掛けると笑顔をつくり、
植物の種に掛けると満開豊作になり、
自然に向けると喜びを返してくれる。

この心
使えば使うほど自然界と身体が調和する。
健康とは自然界との調和で成り立っている。
健康はなにより幸せなこと。
だから、喜びこころを使おう。

日々 嬉しい嬉しい通れば 理が回りてくる     おふでさき

陰の誠

月日にたとえる 神
陰と陽が織りなす世界だから。

陽の中、命あるものは 躍動し
陰の中、神は見澄まし働きくださる。

無限な宇宙は陰の世界
陰にこそ不思議な力が働いている。

人は生きているなか、陽と陰を歩む。
陽の中では、人々と関わり合い自分を飾り装う。
陰では、本来の自分をさらけ出す。

陽の中で働けば、人に愛され褒められるけど、
陰の中で働けば、神に愛され褒められる。

陰にこそ神の意志がある。
陰にこそ真実が必要と言うこと。

陰の働きこそ、幸せになる徳積みとなる。

天の鏡

古来より鏡は崇高なものと扱われてきた。
水面に映る世界を手に入れたいとの思いで、
青銅を研磨し鏡を作り、神に捧げた。
我が身姿が映し出される神秘、鏡そのものに神が宿ると感じた。

かがみ の中にいる が(我)を除けば、かみ(神)となる。

鏡は真実のみを映す。一分の嘘もない世界。
我がまま心をまとった姿そのままに映す。
神宿る鏡は見抜き見通しと言うこと。

映る自分の目は綺麗に映っているだろうか。
嘘偽りのない顔をしているだろうか。

映りかえるは天の理という。
魂は前世までに積んできた姿通り、 
鏡に映り返るがごとく現れてくる。

日々降りかかる事象を素直に受け取る心で過ごしているだろうか。
前世までのいんねん切る生き方をしているだろうか。

真実の自分を映す。
前世の自分を映す。

この魔力が、天の鏡という。

神に恥じない姿を映したいと思う。
神が喜こぶ姿に映り変えていきたいと思う。

映る姿が 綺麗でありたいと思う。

みなせかいのむねのうち かがみのごとくにうつるなり
             みかぐらうた 六下り目 三つ

いんねんと言うて分かるまい。
皆これ世界は鏡、皆人間生まれ更わり、出更わりしても、
心通り皆身に映してあるから、よく聞き分け。
おさしづ明治21.2.15

こころの定規、、、天の定規

子供は、大人から色々ものの見方を学んで成長する。
曖昧な表現で受け取ることもある。
子供は素直に受け取り、心に染みこませる。

染みついた心は、無邪気に動く。
無邪気な優しさであったり、無邪気な悪戯であったり。
染みついた心は、そのまま大人になる。

そして大人は見聞きしたものを心に入れる。
積み重ねた心の定規で情報を測る。
ある人は真っ直ぐだと言い、ある人は捻れ曲がっていると言う。
その定規、善し悪しの目盛りはみな違う。

自分は正しいという思い込み、
相手を傷つけているかも知れない正義感。
正義感から争いも起こる。悲しい結末にもなる。

善悪を推し量る天(神)の定規は、人間には計り知れない。
善し悪しの目盛りを決めたのは人間でしかない。

天は善悪の裁きはしない。
ただ自然界の調和を乱せば結果がついてくるだけ。
人は自分本位の善悪という欲の混じった定規を使う。

曲がった定規は工具箱に仕舞い、
相手を思いやる目盛りで返す。
喜んでもらえる大きさで返す。

心に染みこんだ思いやりの定規で、いつも測れるようにしたいものだ。

結構 結構は、天に届く

人生は長い。
生きるとは責任を負うと言うこと。
責任を全うするには、目標を目指すと言うこと。
目標を目指すには、挫折も成功もある。
生きるという責任には苦楽がある。

苦しさ悲しさは愚痴となる。
愚痴は連鎖して心は病む。

社会とのつながりが切れかかっても、
人とのつながりが切れかかっても、
病の淵にあっても、ほんのささやかな喜びはある。
苦しさの中にも僅かな望みはある。

愚痴を聞いてくれる人がいる、
声を掛けてくれる人がいる、
見つければ きっと見つかる結構なこと。
今まさに生きている、生かされていることに感謝していい。

生きていることこそ奇跡な結構、
「結構なことです」と言い続けていれば、復活できる。

「不足は切る理 結構はつなぐ理」 という。

どんなに辛いことや嫌なことでも、結構と思うてすれば、天に届く理、神様受け取り下さる理は、結構に変えてくださる。                 逸話編144

自分

自分とは、みずからがわかると書く。

自分探しは、何故か一番難しい問い掛け。

 

人はみな違う道を歩む。

同じ目的に向かって歩いても、たどる道先はみな違う。

今いる道に満足できるがどうかは自分の心次第。

他人は、今自分がたどっている道が正しいかどうかは、評価でしかない。

今いる処に満足か、もう少し頑張ろうかは自分のみ測れる。

 

人は歩き続けることが最も大事。

歩くという基本を繰り返し 繰り返し続けることが大切。

歩き続けていると、きっと何のために生きているのかが見えてくる。

 

生きているこの瞬間が、

生かされていると言うことに気づくかもしれない。

 

自分探しは、今いる大切なこの時間と世界に、

素直に感謝する心が見つかったときに分かる。

陽気

気は流れる。

 

自然界の空気の流れ。

太陽からの暖気の流れ。

地球の中心からの磁気の流れ。

生命が成長する根幹となる気の流れ。

 

気が流れなければ、森も朽ち、水も腐り、家屋は衰退する。

古来より先人たちは、気の流れを中心に捉え生活を築いてきた。

気の流れを重んじることで、繁栄を築いてきた。

 

人の身体の中も気は流れている。

気の流れは気分を高揚させて陽気となる。

気の流れは活気を産み陽気となれる。

 

気の流れが滞ると気分は優れず、病を呼び寄せ。

気の流れが塞がれれば、闇の世界に入る。

気の滞留とは陰気という。

 

気とは、不思議な力の流れ。

気は、意識すれば自ら造り出せる流れ。

誰もが与えられた力。

 

陽気暮らしは、誰でも呼び込める。

陽気暮らしは、一人では成り立たない。

つまり、気の流れを呼び込めば、その輪は自然に広がる。

蒔いたる種はみな生える

植物は太古の昔、この星を楽園に作り替えてくれた。

地球という緑の星を造るため、種を蒔き続けてくれた。

己の種を絶やさぬよう芽生え続けた。

 

実から弾けた種子は、様々な方法で地に潜り込む。

風に吹かれ飛び散り、鳥に食べられ糞となり、水に流され知らぬ地に着く。

どこに蒔かれても種は正直に親の心通りに芽生え続ける。

 

人の生き様も同じこと。

日々生活する中に、己の存在価値という種を蒔き続けている。

知らず知らずに心通りの思いが蒔かれる。

癖性分の染みついた言葉や行動が、相手の心に蒔かれる。

結果は正直、相手は傷つき離れていく。

 

蒔いたる種はみな生える。

神様も喜ぶよう素直な心で蒔けば、きっと綺麗な花が咲き誇る。

 

蒔けば生え、蒔かねば生えぬ善悪の、人は知らねど種は正直

節から芽がでる

樹木は、節こぶから枝を生やし葉が茂り、自ら生きていく糧を造りだす。

小さな草花も、節から新芽が生まれ花を咲かせ、種をつなぐ。

竹は、節を造り強さと柔軟さを得て、風雪に耐える力をえる。

彼らは幹や茎に節をつくる術を知っている。

節は自ら傷つけ折れる恐れがあっても、節つくらずして成長ないことを知っている。

 

時も流れ成長を促す。

季節という時の区切りで生命の成長を促している。

 

人は人生という有限の時間の中で生きていく。

草木を鏡と見れば、節こそ成長の旬と分かる。

一生という流れの中に現れる喜び事や悲しみ事こそ、節である。

節なる事象を、受け止め乗り越えてこそ成長がある。

草木でさえそうやって成長し続けているのだから。

 

嬉しい出来事は、人を成長させる道理。

苦しく悲しい時こそ、越えれば強く大きな節となる。

一生という記憶の線に、節こぶが幾つ刻まれるかで、線は太くなっていく。

 

記憶線が太ければ、神も掴み抱えやすくなる。

 

 

年々の道、幾重の節から節が栄える一つの理    おさしづ明治222,21

支えあい、、、助けるが 助かる

この自然界はすべてが連鎖していく世界。

地球には水が満ち、それはすべての空間でつながり連鎖していく。

水の連鎖は生き物の体内にもつながる。

 

光は温みを放ち、それはすべての空間につながり連鎖していく。

温みの連鎖は生き物の体内にもつながる。

 

自然界の大いなる法則によりつながり合う私たちの魂もまた、つながり合っている

つながり合ということは調和しあっているということ、

調和しあう世界は、心と心がつながっている状態。

連鎖を保つには助け合うことが必要。

 

つながり合うから、偶然なる遭遇を呼ぶ。

助けを求める人と、それを支える人との出会い。

縁ある魂の出会いは偶然ではない、因縁という導き。

因縁の結び合い助け合いの世界。

 

助ける心は連鎖して歩く。

助けられた人は喜びをつないで行く。

回り回って自分に返って来る。

 

潤いと温みを伴う喜びの連鎖が陽気ぐらしの道である。 

 

わかるよふむねのうちよりしやんせよ 人たすけたらわがみたすかる                  おふでさき三-47

天の声

自然の中に身をおく。

 

森の中に入る

木洩れ陽の囁き、風がかなでる笛音、

木々から発する精霊の声、土中からむせ上がる響き。

 

海岸に立つ

ごうごうとそそぐ斜光音、からだにまとわりつく潮風の音、

波にかき消されそうな水中から泡となり浮かび出る声。

 

夜中の闇に潜り込む

動くものが隠され、何もないと錯覚する世界、

恐怖を抑え 耳を澄ますと、静寂という微かな声。

 

古来の人々は自然と向き合い会話を交わしていた。

現代人は自ら作りだした雑音の中になれ過ぎて、

自然が発する声に耳を澄まし聞く心を忘れてしまった。

 

森や海から聞こえてくる寛大な温みと優しき声、

闇の中から囁かれる真実の声。

 

私に向けられているシグナルがあるはず。

私を導こうとする声を、心澄まして聞き分ける。

 

何と言っているのだろう。

何を伝えようとしているのだろう。

 

自然界の大いなるエレルギーから放たれる魂への声。

心澄まし、天の声を聞き分けなければ、

きっと進むべき道を伝えてくれているはず。

 

 

ふと浮かぶは神こころ、、、、、天の声

幸せ探し

幸せになりたい。幸せでいたい。誰もがそう思って生きている。

でも 今幸せと、なかなか感じることができない。

辛いことや苦しいこと、悲しいことばかりが心の中を重く支配する。

幸せの重さより、辛さの方が重たいものなのだろうか。

何故人は、辛いことばかりを意識をしてしまうのだろう。

 

 

それより、幸せ探しをしよう。

朝目が覚めて、また今日という日が始められる。

ご飯は美味しくいただける。トイレの用も足せている。

家族がいる。色々あるけれど、笑い合いながら暮らしている。

恋人や友人と喧嘩もするけど、仲良くしている。

仕事も勉強も大変だけれども、前には進んでいる。

何より、回りの人も自分も病んでいない。

これって幸せっていうことかも知れない。

 

人生は長い。その道を歩むのは結局 一人。

幸せも、悩み苦しみも、自分の中にある。

生きるとは孤独、でも寄り添ってくれる人は必ずいる。

 

幸せとは 他愛のない小さなことかも知れない。

でも、些細な幸せを感じられないと前に進めない。

今まさに生きている、生かされている。これこそ幸せなこと。

 

「今 幸せなんだ」と気づくことが、幸せになることだと思う。

 

 

いつまでしんじんしたとても 陽気づくめであるほどに

みかぐらうた 五下り目 五ツ

おやさま、、、教祖

親神が、人間誕生の為に蒔いた因縁ある種 母胎である魂。

親神が、人間創造初め掛けた因縁ある地場に建つ屋敷に引き寄せられた魂。

親神が、人間一列救けあげる旬到来と見定めた「旬刻限」を待っていた魂。

 

教祖は、人間としてお生まれになり、私たちの親となられました。

教祖は、人間でありながら、月日のやしろとなられました。

 

 

この世に人間を創造された神は、太古の起源いずれ成長し人間となり得る種を見出し、心根を確かめられ地場に蒔き、母なる魂が人間として成長した暁には、神の社として拝をさせると約束された。その魂こそ教祖である。

時は経ち、成長した人間が成人しきれない心つかいを憂い、親神は、時旬を向かえ表に現れた。

 

人間でありながら親神が入り込まれるその御身は、宿命の世界と心得られ、

人間としての意思の領分も持ち合わせながら、神の意志を伝える立場に成りきり、

その言葉や筆先、歩み示された雛形の教えは、神の思惑導きと、母なる慈愛に満ちている。

 

 

親神の姿は見えねども、教祖ご在世の姿は人間であり、私たちは神のご意志を知る由となる。

親なる神は厳しく厳格に、

母なる人心は包み込む優しさで、

私たちに歩むべき姿を お示し下されました。

 

私たちは神には到底近づけないが、人であられた教祖には近づくことができる。

陽気ぐらしができる身体は親神様からお貸しいただいている。

陽気ぐらしができうる雛形は教祖から親切丁寧に教えていただいた。

この世は神の創造世界、天然自然のあらゆるご守護は与えられ続けて下さる。

私たち人間は、今世で教祖の慈愛の教えを歩めばよい。

我をほんの少し捨て、心明るく人に優しく接すればよい。

 

 

月日のやしろ 教祖は、人間としての身体はお返しになりましたが、存命にて今も私たちに手を差し伸べ救け続けてくだされている。

このよふをはぢめだしたるやしきなり にんけんはじめもとのをやなり 

                     おふでさき六-55

月日よりそれをみすましあまくだり なにかよろづをしらしたいから

                     おふでさき六-56

神が創造した形、、、丸い心

この世界はすべてが丸くできている。

空を見上げれば太陽も月も、

足下を見れば、途方もなく大きな丸い地球。

無限なるこの宇宙も、おそらく球状の世界。

親神様の懐には幾つもの丸い宇宙が忍ばせてあるのかも知れない。

 

形あるものは丸い物質の集合体。

神様が創造する必然的な形は、丸から始まる。

物を作り始めると自然と丸くなる。

物が自ら成長するには丸から大きくなる。

 

太陽が熱を四方に発散するには丸が理想。

地球が太陽の周りを自転しながら回るには丸が都合よい。

草木の種は丸いから土に潜り込み、水を吸い込める。

いずれ成長した果実や穀物も丸くなる。

人の目は丸くクルクル動く、指先は丸く器用に働く、お腹は丸くベルトが締めやすい。

頭は丸いから帽子が被りやすい。

 

幼きこころは、見るもの聞くもの みな丸く見た。

嬉しいことも、悲しくても、怖くても、それは素直に受けとる。

幼いこころは丸く受けとる。

 

こころに形はないけれど、神様が創造したものはみな丸い。

人間が使いだしたこころはだんだん歪になって、いつか角がでる。

歪なこころに入れたものは、歪なものに変わる。

 

素直な丸いこころは、素直に丸く収める。

 

 

人の心養うように、やさしいなぁと言うは世界の台              おさしづ明治335-16

神のふところすまい、、、神の創造世界

自分は、、、

生まれてきたのではなく、生み出してくれた。

育っているのではなく、育てられている。

生きているのではなく、生かされている。

身を守っているのではなく、みな守られている。

一生という時間を計り、死ぬ世話までしている。

こう言うと、人は努力なくても生きていけると思ってしまうが

そうではなく、神の領分が大きく関わっていると言うこと。

 

神が創造したこの世界。

気の遠くなるような時を掛けて生命は誕生し育つ環境は整った。

そこに人間を生み育てられた。

それは天然自然の法則がなければできなかった。

その絶大なる秩序を創出してくれた神。

 

すべての生物、その一個体である人間。

誕生という神秘な世界と、成長し育ち死ぬ生命の想像を絶する仕組み。

多種な生物とその一員である人間が生かされている天と地の相関しあう自然界の素晴らしさ。

 

神が創造した現世でこの時間を与えられ、

生み出され、育てられ、生かされ、守られ続けていることに気づき、

死を世話取られるまで、あらゆるものを授けられ、

今を生きていることに感謝。

 

このたびはかみがおもてへあらわれて 
なにかいさいをとききかす     よろづよ八首

五感で感じる世界・・・こころ通り

見えるって素晴らしい。

見ることができる現実の空間。

しかし、見えかたはみな違う。

美しいと見る人、、見過ごしてしまう人。

微笑ましいと見る人、、感じられない人。

風や光、見えないものでも見つけようとする人、、考えない人。

 

聞こえるって素敵。

自然から聞こえてくる音がある。

しかし、聞こえかたはみな違う。

涼しい響きと聞く人、、聞き逃している人。

優しい声と聞く人、、疎ましいと聞く人。

微かな自然の音を、研ぎ澄まして聞こうとする人、、意識しない人。

 

匂いという刺激が嬉しい。

漂う匂い。

しかし、嗅ぎ分けかたはみな違う。

甘い匂いと嗅ぐ人、、無頓着な人。

爽やかな匂いと嗅ぐ人、、気づかない人。

花や木や土の匂い、香りを楽しもうと思う人、、余裕のない人。

 

口に含んで味わう楽しさ。

美味しいは贅沢。

しかし、味わいかたはみな違う。

美味しい水を飲んで味わう人、、ただ乾きを癒やすだけの人。

食べれることに感謝する人、、欲望を満たすだけの人。

何でも美味しいといえる人、、好き嫌いをいう人。

 

素肌をなめて流れる風を感じる。

冷たい水に手足を浸し涼を感じる。

焚き火に当たり暖をとる。

身体は自然と接するセンサーとなる。

 

人は五感を使って生きている。

五感が不足している人もいるけれど、他に有るものが秀でて発達するそうだ。

努力してのことだが、無いが為に才能を発揮している姿には感動をもらう。

 

人は五感で受けた情報をこころに繋げる。

外からの情報はみな分け隔て無く同じ。

どう見るか、聞くか、嗅ぐか、味わうか、触れるか。

 

こころ通りの現実の世界。

うっかりしていると、神様からの贈り物を受け取り損ねてしまうかも。

五感で感じる現実世界、こころ通りが運命の分かれ道。

 

 

だんだんに何かの事もみへてくる いかなる道もみなたのしめよ

                     おふでさき 四・22

働くとは

“人は働くために生まれてきたのやで、

働くというのは はたはたの者を楽にするから はたらくと言うのや“

                教祖伝逸話篇「働くとは」


 


人が生まれでた目的は、働くこと。

生きていくとは、働くこと。

誰のために働くかが肝心。

関わり合う人たちと力合わせ汗を流す。

その末に喜び合い笑顔がでる。

働く意義が喜びと変わる。

喜びのないものは、相手に渡らない。

 

遠くに見る山は綺麗だが、登り始めると美しさは見えなくなる。

頂きに立って景色を眺めて喜びが沸いてくる。

苦しくても辛くても歩き続ければ、その先に喜びはある。

働くとはそういう事かも知れない。

 

子どもは健やかに成長すること、

母は笑顔を作ること、

家族は共に働く仲間、

頼もしい応援団がそこにいる。

家族も、仕事仲間も、そしてお客様も、


働くとは、そばにいる人が楽しくなり、その向こうにいる人が喜ぶということ。

こころ変われば

格言に

心が変われば  行動が変わる

行動が変われば 習慣が変わる

習慣が変われば 人格が変わる

人格が変われば 運命が変わる

運命が変わると 人生が変わる

 

今 見ている情景、いつものように見ていては、

今 聞こえる話し、いつものように受け取っていては、

今また 嫌なことが始まる。

結果はいつもの通り。

こころの癖性分が邪魔して 腹が立つ。

 

ほんの少し意識して こころの目線を変えてみる。

ほんの少し努力して こころを大きくしてみる。

ほんの少し我慢して こころの耳を澄ましてみる。

見えたこと聞こえた言葉が、ほんの少し変わってくる。

 

こころをほんの少し変えられれば、人生はきっと善い方へ変わる。

 

“日々 嬉しい嬉しい通れば 理がまわりてくる”

と云う事だと思う。

 

 

しんぢつに心すきやかいれかゑば それも月日がすぐにうけとる

                           おふでさき十七号15

魂のつながり、、、親孝行

人は魂の繋がりの中に誕生を繰り返している。

 

自分が今いるとは、このつながりという縁から始まる。

同じ時代に、祖父母と両親と兄弟姉妹と自分が存在して、

そして、配偶者とその両親と祖父母と自分がつながり合う。

時の流れの中に、子供が生まれ成長し、その先に孫をもたらす。

魂のつながりは、身内と言う縁の中に多くの人と巡り会う。

何とも不思議なつながりが広がる。

 

先祖がなくなることはない、子孫が切れることは避けたい。

 

生まれ出て、今こうして自分がいる不思議。

いずれ先人を見送る時がきて、時の流れの中に新たな出会と誕生を授かる不思議。

 

この時の流れの中に、私を呼び寄せてくれる魂がいるという奇跡。

先祖は大事であり、親孝行は大切なことと知る。

 

この繋がりを創造して下さるのは、神なのだろう。

 

 

内々互い互い孝心の道、これが第一     おかきさげ

山登りが如く、、、人生

眺めみる山は雄々しく美しい。

陽に照らされ、木々は風に揺れ、緑眩しく、清々とした世界。

谷を下る清流、腐葉土に覆われ肥沃な地、隠れ住む虫・鳥・獣。

それは唯々優しい世界と眺める。

 

麓に入り見上げる、そこには山の全容は見えない。

大自然と一人対峙する。

自然の温もりとも怖さともいえる感覚。

自然は多くを教え育ててくれるし、底知れぬ不安の世界に引きずり込む。

 

“人生は山登りの如く”と言う。

 

みな眺める美しき山脈を理想に掲げて歩きだす。

向こうは優しく迎え入れてくれているのに、

いつか登り続けることの辛さを知る。

結局自分一人の世界だと知る。

 

頂きは遙か先、うかがい見ることもできない。

唯々木々の中、自然からの恵みを感じて登る。

時には容赦ない雨風を浴びる。

歩くからには、学ぶものがあるはず。

登るからには、成長するしかない。

 

人生という山は遙か道。

目指す山はみな違う、漠然とした理想という一つだけの山。

登りきた坂をふと振り返り見、間違っていないと思えるか。

先は、頂上に辿り着けないかも知れない。

そこが、自分の選んだ山。

 

人生は山登りという運命、

登らないものは一人もいない。

 

ほそみちをだんだんこせばをふみちや それがたしかなほんみちである
                      おふでさき 一号49
いまのみちいかなみちでもなけくなよ さきのほんみちたのしゆでいよ
                      おふでさき 三号37

素直に優しくいこう

今の時代は生きづらい、とよく聞く。

それは、多くの人との交わりからなのか。

    孤独感からなのか。

 

それは、情報量が多すぎるからなのか。

    情報と繋がるのが煩らしいからなのか。

 

それは、競争観念に振り回されるからなのか。

    競い合いたくないからなのか。

 

それは、時間に追いまくられるからなのか。

    時間をうまく使えないからなのか。

 

考えられることは確かに多い。

 

感性は一人一人みな違うが、社会の営みは同一な世界として動いている。

人の心はみな違う思いがあるが、世間の思惑は一人に寄り添う優しさはないようだ。

 

生きづらい中にどう生きていけば良いのか。

 

それは、身近な人に寄り添えばいい。

心にしっくりくる声だけ聞けばいい。

自分のペースで行けばいい。

時間を大切にすればいい。

 

それは、素直に優しくなればいい。

素直とは自分のために、優しくとは人のために。

 

 

しやハせをよきよふにとてじうぶんに みについてくるこれをたのしめ

                      おふでさき 二号42

元気でありたい

心身の活動の源となる精気みなぎり、

体の調子が良く健康で、生命力・活気に満ちている状態を元気という。

 

“元気”と、よく声を掛け合う。

何か心もとない気もするけれど、合い言葉のように返してしまう。

ふと考えると、自分は本当に元気なのだろうか。

 

自分の身体の中の生命力という気の流れは、活気に満ちているだろうか。

知らずに流れを詰まらせていないだろか。

どこかで蓋をしていないだろうか。

 

万物生成の根本は流れが生み出す。

火、水、風の流れ。

温みと、潤いと、精気の流れ。

 

神から貸し与えていただくこの身体も、自然界の流れに共鳴して流れを作りだしている。

その調和に反するこころ使いが流れを止める。

病も悩みもこころ次第、気の流れの淀みから生まれる。

 

元気とは、身も心も健全と言うこと。

気の流れを元に戻す、これを元気という。

自然と身体と心が調和しあい、

自然界のすべての流れが共鳴しあうことが大事ということ。

 

“二つ一つが 天の理” 自然と身体が調和しているとき、元気という。

惜しいのこころ、、、八つのほこり(一つ目)

骨身を惜しまず働く人は、誰にも愛され慕われる。

その人は損得抜きで力を尽くすから、輝いている。

体をいとわず働くから結果がどうあれ、満足感を味わえる。

 

知恵も力もお金も、ここぞと言うとき人のため惜しまず出し切る人は、

誰からも尊敬される。

 

親しい人との別れは心残りな感情が湧き上がる。

その人と関わった時を惜しみ悲しむ心は、美しい。

 

 

なれど、出し惜しみ、骨惜しみと言うこころ使い。

面倒だから、自分の徳にならないからという、身勝手わがままな心。

 

せっかく持っている自身の力を使い切らない。

惜しむほこりは、いざというとき救いの手を差し伸べてくれる人がいない。

 

知恵も力もお金も惜しみなく出しきれば、不思議といつか必ず返ってくる。

 

こころ次第の法則がある、、、誠一つが天の理。

 

この心のほこり、気づいて直せばみんなに慕われる。 

 

惜しいというほこり

心の働き、身の働きを惜しみ、税金や納めるべきものを出し惜しむ。

また、世のため人のための相応の務めを欠き、或いは、借りたものを返すのを惜しんだり、嫌なことを人にさせて自分は楽をしたいという心。

欲しいのこころ、、、八つのほこり(二つ目)

幼き子どもを見て思う。

見るもの聞くもの触れるものに興味が沸く。

自然に手が出ておねだりとなる。

初物に目が輝く。

子どもの本能だろう。

欲求は、成長する上で大事な感情だと思う。

 

しかし、欲しい心は、節度が必要。

物欲は際限なく進む。

我欲という心は、自己満足の世界。

自分さえよければという欲しいの心。

人に与える心がなくなる。

 

人が持って生まれた欲しい の心。

神も望んだ欲しい の心。

欲望なくして、人間は夢を追い求めない。

努力して得た相応なものは、自分を輝かせてくれる。

欲しい欲しいという真っ直ぐな心が“陽気ぐらし“となる。

 

 

欲しいのほこり

 人が持っているものを見て欲しいと思い、働かないのに見返りを求めたり、自分を省みないで、むやみに欲しがる心使いはほこりとなる。

憎いのこころ、、、八つのほこり(三つ目)

なんとも憎い奴だね、、、とは陰で相手を褒め称える言葉。

憎らしいほど出来る人、素敵な人のこと。

憎まれるほど努力をした称号となる。

 

人を憎むとは、自分との比較で生まれる感情。

自分が努力もせずに至った結果、相手を非難する心。

自分が成長していけない、小さな心つかい。

自己中心の狭い心は、人を憎む心に置き換え成長を妨げる。

 

成長するには仲間が必要。

支え合い協力する中に成長がある。

憎まれるほどの努力は、人を喜ばせる。

 

 

憎いというほこり

 気に入らないと言っては人を憎み、相手が悪いと言っては人を憎む。わがまま気ままから人を憎む心使いはほこりとなる。

可愛いのこころ、、、八つのほこり(四つ目)

可愛い思いは大切なこころ。

他人を愛おしむこころ。

そこから人間同士結ばれて行く。

親は子を可愛がる。子は親を慕う。

夫婦は互いにかわいい思いを共有しあう。

大人は子どもたちをみて、平等に愛おしさを受け取る。

自分は、人から可愛がられるために働く。

それは、可愛いという思いから始まる。

 

でも、我が身かわいい我が子かわいいは、ほこりとなる。

誰もが自分はかわいい、大切な存在。

誰しも我が子はかわいい、かけがえのない存在。

しかし、強く他人と区別する心。

優しさが消えていく。他人を愛せなくなる。

可愛いという優しいこころが、悪者に化ける。

 

すべて、可愛いの心で人類みな兄弟姉妹となれるはず。

 

 

かわいのほこり

 自分さえよければ人はどうなってもよいという心。わが身可愛い、我が子可愛いという自分勝手、わがままな心使いはほこりとなる。

恨みのこころ、、八つのほこり(五つ目)

うらみ、言葉としても陰湿な響きを感じる。

ねたみが興じて憎悪の心となる。

そこには、通じ合う優しさは微塵もない。

 

うらみは、裏見という。

何でも裏側を見ようとする。

人の心の裏、言葉に隠れた部分を、探り回る。

無いもの、見えないものを探るから、こころが捻れる。

やがてすべてが信じられなくなる。

 

人の優しさが受け取れないこころ。

成ってくることすべて受け入れないこころ。

 

恨みのほこりは、大切な相手をなくす。

恨むこころは、貴重な時間を無駄にする。

恨むこころは、自分自身を見失う。

恨む心に未来はない。

 

大勢の人と係る世界、大きな心で許す心に未来は輝やく。

 

恨みのほこり

体面を傷つけた、望みを妨げた、どう言ったと、自分の不徳を思わず、

人を恨み、根に持つようなこころは、ほこりとなる

腹立ちのこころ、、、八つのほこり(六つ目)

これほど使うほこりはない。

思い通りにならないことに、ついイライラする。

 

相手の言葉が意に反すると出てくる。

自分自身に納得できないと出てくる。

人にも自分にも腹を立てる。

なんとも厄介なほこりである。

 

元はわがままなこころ。

自分の欲求が満たされないこころ。

 

腹立ち心は、辺りに波を立てる。

波に弾かれ、いずれ人は遠ざかる。

ふり向けばたった一人の道となる。

 

怒りは、他人も我が身も蝕み、災いを招く。

腹を立てると、人相・態度・匂いにでる。

人は逃げる、病と悩みが寄ってくる。

 

所詮相手は自分とは違う。自分の思いと同じはずはない。

大きなこころで許すしかない。

 

 

みなみていよ傍なもの、神が見ている気を静め    みかぐらうた 四下り三つrr

 

腹立ちのほこり

人が悪いことを言った、意に反することをしたと腹を立てる。

理を立てず我を通し、相手の言い分に耳を貸そうとしないで腹を立てるような心。

短気や癇癪は、自分の徳を落とすだけでなく、命を損なうこともある。

欲のこころ、、、八つのほこり(七つ目)

欲にきりない泥水や 心澄みきれ極楽や    みかぐらうた

 

自然界の生き物は、その時に必要なだけの恵みを得ることで生きている。

獣は空腹を満たす術として捕食するだけである。

植物とて自然界と供与し合う中に必要なものを受け取り、空気を浄化してくれる。

自然界のバランスを保つ法則の中で、欲を使う。

 

人間は、

向上心という欲は自らを成長させるし、

分相応な持ち物は自らを高めてみせる。

 

なれど、

人は知恵を持ったがために欲かきとなった。

人よりも多くのものを身につけようとする。

際限なき欲望にのまれ、お金を握りしめる。

己がためだけの欲は、人を騙し踏みにじり傷つける。

最後には徳を使い果たし、悪しき者しか寄りつかない。

 

知恵で得たものは、皆に分配し生きたものとする。

人に貢献するが欲は、善くと呼ぶ、、、心澄み切れ極楽や!

 

 

欲のほこり

人より多く身につけたい、取れるだけ取りたいという心。数量をごまかし、人をだまして利をかすめ、あるいは盗み、取り込むなど、何によらず人のものをただわが身につけるは強欲。色情に溺れるは色欲。

高慢のこころ、、、八つのほこり(八つ目)

地位や権威を掴むことは、努力した結果として素晴らしい。

理想や思想を貫いて、認められた立場であろう。

仲間を守り導いた組織の中心として輝いている。

その実力は、みなが認め信じられている。

高見の頂から望む景色は、さぞや素晴らしいだろう。

 

なれど人はそこからが肝心。

支えてくれた家族や仲間の思いを忘れていく。

 

見下す心が支配する。

見下す心は、人の意見を聞かない。

見下す心は、人を踏みにじり罵る。

その心は、人の痛みがわからなくなる。

 

このほこり、神が一番嫌うこころ使い。

見下すこころは徳を空にする。

最後にすべて失うこころ使いだという。

 

どんな山でも頂点に立てたのは人の援助が有ってのこと、、、

忘れてはならない。

 

 

高慢のほこり

力もないのに自惚れ、威張り、富や地位をかさに着て人を見下し、踏みつけにする。

また、頭が良いのを鼻にかけて人をあなどり、人の欠点を探す、あるいは知らないことを知ったふりをするような心。

ものの順序

ものには全て順序がある。

 

この世は、親神の創造から始まった。

すべの起源は、そこが出発点であり、

秩序よく順々に造られてきた。

この世の成り立ちの法則は順序一つ理。

 

地球の誕生は40数億年前から始まる。

命の誕生も順々に造り込まれている。

人の誕生も然りである。

時の流れの中に順序をもって成しえた世界。

 

私が今ここにいるとは、

そこには親があって、代々の祖先があった。

そして、妻と巡りあい、子どもを授かり、孫まで来てくれた。

一人でも欠けると、今の私はいない。

過去に繋がった人を大切にする。

すると順々に繋がり続けると言うこと。

 

人の歩む道には順序という法則が働いている。

順序を欠くと、道から外れる。

 

時の流れの中に順序が生まれる。

全ての繋がりは、神の思惑で順序よく造り込まれているはず。

 

 

順序一つが天の理

親というものはどれだけ鈍(どん)な者でも、親がありて子や。子は何ぼ賢うても親を立てるのは一つの理や             おさしづ明治22.1014

つっぱり立つ力、、、十柱神(月よみの命)

母の介護をして思う。

やせ細った体を起こし立たせることの大変さ。

自身の小さな体を、ガクガクと細い足で立つ練習。

 

赤ちゃんは2年もかけてやっと立ち上がり歩み出す。

立ち上がることで、やりたいことができることを知る。

 

草木は土の中から芽を出し立ち上がる。

か細く始まり、大地に根を張り突っ張り立つ。立たねば枯れる。

動物は本能のままに立ち上がる。

生きる活動として立ち歩き移動し、目的をこなす。

立ち上がることで命を守る。

 

つっぱり立つという力。

小さな草の茎は本当に細く、水気の管が無数に空いている。

それでも立ち上がる仕組みが備わっている。

動物の骨格は筋肉をまといバランス良く突っ張り立つ

人は更に二足歩行で立ち働く。

 

この仕組み、不思議な働きの極みであろう。

立てなければ育たないし、生を全うできない。

天に向かって突っ張る。

神が放つ力に向かって大地に踏ん張り立つ。

天のお与えを受け取るための本能の力であろう。

 

 

つっぱり立つ力、、、十柱神・月よみの命

人間身の内の 男一の道具骨つっぱり、世界では万つっぱりの守護の理

水気上げ下げの働き、、、十柱神(くもよみの命)

食べることの喜び。

食べたいという欲求で命が繋がる。

そして出すことの快さ。

けれど、飲み食いした後身体の中のこと、考えることがない。

ご馳走を喜び、気持ちよく出た物しか見ていない

 

生きていく術たる飲み食い出入り。

実は力を生み、水は潤いを生む。

順序よく消化されて出口から排出されて、土に戻る。

粉砕、分解、結合、変換、抽出、分別という流れ。

様々な工程で血となり肉となり糞となる。

 

地球の内なる水気の営み。

水気は自然界を循環し、あらゆる養分を回している。

これが地球上でおきている大きな営みのひとつ。

この自然界の法則と一致する体内の仕組み。

神が創造したこの世界の内なる仕組みは、一つということかも知れない。

 

この巧みの働きに感謝しかない。

自然界の水気上げ下げの流れと調和するが如く、飲み食い出入り体内の仕組み。

これなくして命は続かない。

 

 

くもよみの命

人間身の内の飲み食い出入り、世界では水気上げ下げの守護の理

                       十全の守護

切る働き、、、十柱神(たいしょく天の命)

古代の人は、眼前にある物を都合良く使いたいと考え、

石を研ぎ、斧を作り、物を切ることで生活を豊かにした。

切るという知恵は、文明の原点である。

身の回りにある物は、切る働きによって作り得た。

 

今も人は、髪を切り爪を切り身だしなみを整え、

食材を切って調理し、食事を楽しんでいる。

生活する中に切る働きで、生活を豊かにしている。

 

切るという文字、切ないとも使う。

別離など、関係が切れる寂しさを感じる言葉でもあるが、

雑念を切る、執着心を切る、依存心を断ち切る。

酒やギャンブル依存、強欲な癖性分は、断ち切らねば身を滅ぼす。

生きていく上で必要ないものは、切らねばならない。

 

病も辛い、事情悩みも苦しい。

なんのいんねんか、心は沈む。

悪いんねんは切らねば晴れない。

 

人の一生、

この世に生まれ出て、へその緒を切り第一声を発する。

死にゆく時、呼吸を切り神の元に返る。

生も死も切る働きにて成される。

 

繋がる働きと、切る働き 二つ一つが天の理

繋がり続けることは理に適うが、切らねばならない摂理もある。

 

 

切る働き、、、十柱神(たいしょく天命)

出産の時 親と子の胎縁を切り、出直しの時 息を引きとる世話、

世界では 切ること一切の守護の理

引き出す働き、、、十柱神(をふとのべの命)

性の営みこそ この世界の始まりである。

神は夫婦をこしらえ来たるでな と言われた。

母体は全ての生の始まりとなる深海。

深海に神が入り込み命を宿し込む。

 

この世に送り出される命は自ら出る力は持たない。

ここに引き出す力が必要。

母体は準備をして引き出す力を受け取る。

生命の誕生という営みは、神秘的な引く働きにて成しえる。

 

誕生した命は、最初にする仕事は引く息だそうだ。

吸わなければ吐けない。

命は引く息から始まる。

引く息が呼吸という働き、生かされ続ける大事な働きである。

、、、一生の終わりも引く息で終わるという。

 

命をいただけば、成長するしかない。

能力は無限に授けてくれてある。

才能を引き出すには、回りの優しき人の心と、

運命を引き出してくれる不思議な働きである。

 

人は農作物の種を蒔く。

蒔いたる種はみな生える、、、と言う。

芽を吹く力、これまた引き出す働き。

生えたる芽をどう伸ばすかが肝心。

 

伸びるという成長の営みは、引き出す力のお陰。

引き出す力は、命の始まりから終わりまで働いてくれる。

 

 

引き出す働き、、、十柱神(をふとのべの命)

出産の時 親の胎内から子を引き出す世話、世界では引き出し一切の守護の理

男と女

親神は

”この世の地と天とをこしらへて

夫婦をこしらへきたるでな

  これがこの世の創めだし“

元始まりの教えである。

 

男と女、この絶対的な存在。

男と女、この絶妙な仕組み。

 その身体の相違なる役目。

男は種蒔き、女は苗代という。

男と女、この異性たる心の使い分け。

 二極なる素晴らしき関係。

 偶然ではない男と女の不思議な引き合い。

 相思相愛なる性の交わり。

そうして子孫は続いていく。

神が創造した究極の営み、創めたからには永遠となりうるはず。

 

素晴らしき神の創造。

男である、女であることを語る必要はない。

その役割は、必然的な違いに他ならない。

神の思惑を悟ることが大事。

 

 

愛し合う性の営み。

これ無くして命は続かない。

生命の星、地球に人間として生まれ出る。。

気の遠くなる刻限を経た今、私は人間の男としている。

 

永遠に続くいんねんの再会。

魂には男女の違いはないのかも知れない。

次の世では男と女、どちらの身体を授かるのだろうか。

この世は男子、喜べばよい。

来世はどっち、愉しみである。

人は何故 祈る

人はいつも誰もが祈っている。

意識する中で直ぐ先への望みを願う。

より良い結果となるように祈る。

 

人は潜在意識の中で、いつも幸せでありたいと無意識に願う

誰もが生活する中で、心の奥底が自然と祈っている。

 

神は、私たちの身体に人となる膨大な情報を書き込んで下された。

それは絶えることなく続くようにと、

自身を守り成長と存続を繰り返す暗号。

つまり生命が絶えることなく繋がっていく真理の書き込みである。

 

人はみな自分がかわいい、より良き方へ行きたいと願う。

人はみなわが子かわいい、そう幸せを願う。

人はみな回りの人が幸せであって欲しいと願う。

これみな、からだに刻まれた神の真理。

 

人は何をするにも願う、、、願うとは、、、祈り。

祈りをしない人はいない。

 

自分を大切にしようと祈る。

人を助けようと祈る。

世界が平和であって欲しいと祈る。

そうからだに刻まれていることを知る。

 

みんなが自覚して祈れば、陽気ぐらしの世になるはず。

 

 

世上が鏡、いかなるもかりもの、こころ我がもの、こころ通り鏡に映してある。

                      おさしづ 明治21年.729

 

月日にわにんけんはじめかけたのわ よふきゆさんがみたいゆへから

                      あふでさき 十四,25

人は繋がり合う世界にいる

人は家族で繋がる。

 いちばん身近な小さな集まり。

 この小さな集まりの中でみな成長する。

 この小さな集まりも過去へ遡れば多くの先人。

 先祖が繋いでくれたこの家族。

 

人は仲間と繋がる。

 一人の友人と出会う。

 その一人の向こうにも人はいる。

 その連鎖は多くの輪となる。

 一人と繋がるとは多くの人と結ばれたと云うこと。

 

人はなぜ人と交わるのか。

 一人では生きていけない。

 人のために働き、相互に与え合う。

 社会性をもたなければ何も得られない。

 

家族は、人を育て自立させる繋がり。

友は、人を成長させる繋がり。

社会は、見えない人たちとも繋がり合う世界。

 

人と人の繋がりは、幸せを分かち合う世界。

神とは、、、その2

“だんだんと何ごとにてもこの世は

神のからだや思案してみよ。“

 

 

この世界、、、と言うけれど、際限のない宇宙空間。

 

夜空を見上げれば人知では決して辿り着けない宇宙の果て。

地球の広さも小さな人間には計り知れない果てしない世界。

命あるこの身体の営みも小宇宙といえる不思議な世界。

 

必ず死んでなくなる命も、その生命は続いていく。

地球というこの星も自然を循環させ生命を造り続ける。

この自然界の秩序と法則を生む宇宙とは何ものか。

宇宙に内在する強大なエネルギーが神そのものなのか。

人間の見る世界と神の観る宇宙全体は違うのだろう。

 

子供の頃読んだ童話に、

お釈迦様から逃げる孫悟空はきんとんに乗って地の果てまで飛んで逃げる。

気づけばお釈迦様の手の上にいる、、、と言う話。

 

“この世は神のふところ住まい” と教えていただく。

 

神のからだが宇宙そのもの。

神の意志で生成されている世界。

全てを誕生と消滅を繰り返し成長させている。

全ての命は神の子ども。

神はこんな創造を日々楽しんでいる。

 

 

親神は何人いて、別の宇宙は幾つあるのだろう。

別の宇宙にいる私は何をしている、、、

こんな空想もありとなる、、、

 

わたしは神の中にいる。それこそが幸せなことだ。

理、、、ことわり

理づめの世界。

自然界のすべての現象は必ず根源を元にして起きてくる。

それは秩序をもった法則により、成ってくるという理の世界。

 

身の回りに起きる自然界の営みを、人は何気なく感じ見ているが、

夜は明け、風が回り、雨が落ち、季節が移る。

刻々と成ってくる自然現象も、

宇宙生成で順々にできた理が元になり、根源が定められて起きてくる。

すべての事象には元があるということ。

 

 

人は生活する中、新たな人との出会いを得る。

偶然な出会いと受けとり喜ぶ。果たしてそうなのだろうか。

 

人は人生を歩む中、多くの悩みに直面する。

突然に沸き起こってきた問題だと憂い苦しむ。果たしてそうなのだろうか。

 

人は時として病に冒され、死を意識し絶望の淵に落ちることがある。

突然自分に降り掛かった病になぜと悲しみもがく。果たしてそうなのだろうか。

 

前世までの人それぞれの営みが元にあり、

現世で蒔き続ける種がやがて芽を出す。

 

今が幸せかそうでないかには、必ず元なる原因があるはず。

この世界は理づめの世界なのだから。

そこを思案しなければ、陽気はこない。

自然は生きている、、、自然界は生命体

自然は生きもの。

自然そのものが生命、自然には意思がある。

 

宇宙はもの凄い早さで膨張しているらしい。

地球はもの凄い早さで動いている。

地球の中も常に動いている。

海も川も空も常に動いている。

動物も草木も体の中はあらゆるものが動いている。

死んだものでさえ、自然に返るという動きをする。

見える世界の全てが、もの凄い早さで動いている。

動いているとは生命ということ。

 

自然界は躍動の世界、静止しているものはない。

 

動く物には核がある、、、それが魂。

動くとは意思がある、、、それが心

 

自然界は大きな生命体、すべてに魂と心があると云うことになる。

それは神の創造された世界。

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天理教浦和分教会 
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